「赤壁に龍は踊る・改」の初稿が出来たことに安心して、昨日は創作をお休みして、読書三昧でした。
しかし、すぐに「頭に知識が残っているうちに、続きを書いたほうがいいなあ」と思いなおしました。
手元にある資料から、孔明たちが荊州をどのように奪還しようとしたか、抜き書きしたのです。
その後、吉川英治版の「三国志」をチェックしてみました。
どういうふうに描いていたっけ? と思いまして……
そしたら、こう言っちゃなんですが、史実とはちがう、面白いけれど、めちゃくちゃな流れのお話だったんですね。
もうちょっと史実に近い感じだったかなと思っていたのですが、まちがって覚えていました。
これは吉川英治先生がどうとかじゃなくて、三国志演義がそういう流れなわけです。
※
正直なところ、赤壁以後のストーリーをどう組むかは、まだ悩んでいます。
史実があるんだから、そのとおりに書けばいい、というところなんですが、その史実がちょっとはっきりしないところが多いのです。
劉備軍が侵攻する、荊州の南部。
この四つの郡の太守たちのうち、エピソードがはっきり残っているのが桂陽の趙範くらいかな。
長沙の韓玄は、演義だと非常に悪く書かれていますが、じっさいは違ったようです。
そのほか、劉度、金施もどうなったのか、史実だと詳しくわからない。
わからないからこそ、面白おかしく膨らませられるかなー、とは思うんです。
ですが、この四人の太守たち、あんまり悪人じゃなかった人たちばかり。
いつもの、じつは○○だった! をするのは、気が咎めるといいますか。
どう書くか、難しい所です。
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そして悩むのが、趙雲と孔明は離れていたか、それとも、同じ場所に留まっていたのかが、あんまりよくわからない点。
ふつうに考えれば、趙雲は桂陽を占領した後、孔明か劉備の側に戻っていたはず。
でも本当にそうか、確証がない……
桂陽にいて太守をやっていたのかな。
たしか、現地に趙雲を祀る祠があったけれど、文革かなんかで壊されて、体育館だかの倉庫になっている、と聞きました。
もしかしたら、いまは直されているかもしれません(まだ調べていない)。
祀られるくらいだとすると、趙雲は桂陽に留まっていたか、あるいはあちこち往復していた?
それとも、三国志演義の人気にあやかって後世に出来た祠で、古代の住民と趙雲のあいだに、さして関係はなかった?
どうなんでしょうねえ。
もうちょっと調べないと。
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本日7月13日の11時にweb拍手を押してくださった方、どうもありがとうございました!
応援していただいているおかげさまで、創作も順調です。
引きつづき、いろいろ工夫してやっていきますので、また応援していただけるとうれしいです!
継続して結果をお見せできるよう、がんばります。
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